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私はムスリム/ムスリマです。
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私はムスリム/ムスリマです。
ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アル=ハマド
私はムスリム/ムスリマです。これは私の宗教はイスラームです、という意味です。イスラームという語は、最初の預言者から最後の預言者へと、全ての預言者たち(平安あれ)によって受け継がれてきた、偉大で神聖な言葉です。この語には、崇高な意味と偉大な価値感があります。まず、「創造主に帰依し、服し、従う」という意味があります。また、個人・集団にとっての「平安」「和平」「幸福」「安全」「安泰」という意味もあります。
そのため、「サラーム(平安)」と「イスラーム」という語は、イスラーム法において最も頻出する語の一つとなっています。「サラーム」はアッラーの美名の一つです。ムスリムどうしの挨拶の言葉も「サラーム」です。天国の住人の挨拶も「サラーム」です。本当のムスリムとは、「その舌と手が全てのムスリムにとり安全な者のこと」です。イスラームは全ての人びとへの善を望む宗教です。またイスラームは全ての人びとのものであり、現世と来世における幸福のための道です。イスラームは最終的な形で、包摂的で、広範的で、明確で、全ての人びとに開かれた形でもたらされました。人を出自や肌の色などで見ることはありません。そうではなく、人びとを平等にとらえます。イスラームでは誰のことも差別しませんが、人がイスラームをどれだけ実践するかという点だけを見ます。
イスラームは人間の天性に合ったものであり、正常な心を持つ全ての人によって受け入れられます。全ての人は、善、正義、自由を志向し、自分の主を愛し、その存在だけが崇拝にふさわしく、それ以外のものは崇拝にふさわしくはないという志向性を持った状態で生まれます。人がこの天性を失ってしまうのは、外的要因のためです。イスラームという宗教は、人間の創造主、人間の主、人間に崇拝されるべき神が、人間に対して望むものです。
イスラームという宗教は私に、以下のことを教えます:私はこの世で生活し、死後には別の世界へと移ります。それが、人びとの行き先が天国か地獄かになる、永遠の世界なのです。
またイスラームという宗教は、私にやるべきことを命令し、やってはならないことを禁じます。やるべきことをし、やってはならないことをしないことで、現世と来世において幸福になります。しかしそこにおいていい加減だと、その程度に応じて、現世と来世において不幸になります。
イスラームが私に命じている最大のことが、タウヒード(アッラーの唯一化)です。だから私は、アッラーが私の創造主であり、崇拝する神であると証言し、確固として信じます。私はアッラー以外には崇拝しません。私はアッラーを愛し、その罰を恐れ、その報奨を望み、かれに身を委ねます。タウヒード(アッラーの唯一化)は、アッラーの唯一性と、ムハンマド(祝福と平安あれ)の使徒性の証言の中に、現れています。ムハンマド(祝福と平安あれ)は最後の預言者であり、全世界への慈悲としてアッラーから遣わされました。彼によって預言者とそのメッセージは最後のものとなり、彼以降に預言者はありません。ムハンマド(祝福と平安あれ)がもたらしたのは、あらゆる時代、場所、人びとに適合する、普遍的な宗教です。
また私の宗教は、天使たち、全ての使徒たちを完全に信じることを命じます。使徒たちの中には、ヌーフ(ノア)、イブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)、ムハンマド(彼ら全員に平安あれ)らがいます。
また、使徒たちに下された諸啓典を信仰することを命じます。そしてその中の最終版であり、最も偉大な啓典であるクルアーンに従うことを命じます。
また私の宗教は、最後の日への信仰を命じます。人びとはその日、自分が行ったことの報いを受けます。また、運命を信じることを命じます。この世で起きる良い事にも悪い事にも満足し、救われるための要因を満たすために努力します。
運命を信じることで、安らぎ、平穏さ、忍耐を得ます。起きてしまったことについては、無念に思い続けません。なぜなら、起きたことは起こるべくして起こり、起こらなかったことはそもそも起こることにはなっていなかったということを、固く信じているからです。全ての物事はアッラーによって定められており、私は何かを決心したらその達成のためにするべきことをするだけです。そしてその後に出た結果について、満足します。
イスラームは私に、善行を行い、よい性格を身につけることによって、魂を清めることを命じます。それらによってアッラーは喜び、自身は清められ、心は喜び、胸は広がり、道は照らされます。また、社会において有益な人間ともなります。
それらの善行の内でも最も偉大なものが、以下のものです:タウヒード(アッラーの唯一化)。昼夜の5回の礼拝。財産の喜捨。毎年1カ月のラマダーンの断食。出来るならばマッカにあるカアバ神殿を訪問して、ハッジ巡礼を行う事。
心の安寧を得るために私の宗教が最も強く勧めているのが、クルアーンを沢山読誦することです。クルアーンはアッラーの言葉であり、最も正しい話、この上なく美しく偉大な言葉です。先代から後代に至るあらゆる知識が、その中に詰め込まれています。クルアーンを読誦し、傾聴することにより、心に安らぎと幸福感が宿ります。そこにおいてアラビア語を知っているかどうか、ムスリムかどうかは関係ありません。
心の安寧を与えてくれる最大のものの一つに、アッラーにドゥアー(祈願)することがあります。アッラーへと避難し、大小様々なことをアッラーにお願いすることです。アッラーはかれにドゥアー(祈願)し、かれに対して真摯に崇拝する者に必ず応じてくれます。
また、心の安寧を与えてくれる最大のものの一つに、アッラーをズィクル(唱念)することがあります。
預言者ムハンマド(祝福と平安あれ)は私に、アッラーのズィクル(唱念)のやり方や、最善のズィクルなどについて教えてくれました。たとえば、次の4つのズィクルは、クルアーンに次いで優れているものとされています:「スブハーナッラー(アッラーに称えあれ)」「アルハムドゥリッラー(アッラーに称賛あれ)」「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラー以外に崇拝すべきものはなし)」「アッラーフ・アクバル(アッラーは最も偉大である)」
また、「アスタグフィルッラー(私はアッラーに罪の赦しを乞います)」「ラー・ハウラ・ワ・ラー・クウワタ・イッラー・ビッラー(アッラー以外いかなる偉力もなし)」といったズィクルも優れたものです。
これらの言葉には、心に安寧と落ち着きをもたらす、驚くべき効果があります。
またイスラームは私に、人間性や尊厳を損ねるようなことからは距離を置き、高潔であるように命じています。そして私の理性と身体を、私の現世と来世に役立つような、本来の目的において用いることを命じています。
またイスラームは私に、言動による可能な限りの慈悲、よい性格、よいつき合い、他の被造物に対する善行を命じます。
被造物に対する義務で最大のものは、両親への義務です。私の宗教は親孝行と、彼らに対する善行への愛を命じています。特に両親が年配になった時には、彼らを幸福にし、彼らの役立つことにおいて努力することを命じているのです。実際、イスラーム社会において両親は、子供たちから敬意を払われ、奉仕され、高い地位を与えられています。両親が年老いたり、病気になったり、自由に動くことが出来なくなったりすればなるほど、子供の親に対する孝行は増加します。
また私の宗教は、女性を気高い存在とし、女性に偉大な権利を与えました。イスラームにおいて、女性は男性の片割れです。最良の人は、自分の妻や家族に最良の者なのです。ムスリマ(イスラーム教徒の女性)は子供の頃には授乳、養育、教育の権利があります。この時期、彼女らは両親や兄弟姉妹にとっての心の喜びであり、癒しとなります。
成長すれば、彼女らは尊重された貴い存在となります。後見人(父親や兄弟)は彼女らを名誉と感じ、大切に守ります。後見人たちは彼女らに悪の手が伸びたり、彼女らについて悪いことを言われたり、彼女たちが騙されたりするようなことを、容認しません。
彼女らが結婚する時は、アッラーの言葉によって、厳粛な契約のもとに結婚します。彼女らは、夫の家で最も大事な同伴者となります。夫は彼女らを手厚く扱い、善行をほどこし、害から守らなければなりません。
彼女らが母親であれば、彼女らに対する孝行は、アッラーの権利と肩を並べます。そして彼女らへの親不孝や悪行は、アッラーに対するシルク(アッラー以外の何かをアッラーと並べること)や、地上における腐敗と肩を並べるのです。
彼女らが姉妹であれば、家族のムスリムは彼女との良好な関係を維持し、彼女らを手厚く扱い、名誉と感じます。母方の叔母であれば、彼女らは孝行や良い関係の維持において、母親と同等の地位にあります。
祖母であれば、または老齢になれば、子供たちや孫やあらゆる親戚の間での彼女の価値は一層高まります。彼女らの要求は応じられないことがないほどで、その意見が軽んじられることもありません。
親戚でも隣人でもない関係にあるムスリムでも、彼女らに対するイスラームの一般的義務があります。彼女らを害から守ったり、ジロジロと見たりしないことなどです。
ムスリム社会は現在に至るまで、これらの女性が有する権利を固守しています。それゆえに非ムスリム社会にはないような特別な価値や配慮が、女性には与えられているのです。
また、イスラームにおいて女性は所有権、賃貸権、売買権、その他の契約の権利を有します。女性には宗教に反しない形において、教育、学習、仕事をする権利もあります。知識の種類によっては、それを学ぶのはむしろ各個人に課された義務です。性別を問わず、それを放棄した者は罪を犯すことになります。
男女とも、それぞれに特化されたものを除いては、同様の権利や法規定があります。男女それぞれに特化された権利や法規定は、それぞれの状況において好ましい適切な形となっています。
また、私の宗教は兄弟姉妹、父方の叔父や叔母、母方の叔父や叔母など、全ての親戚を愛することを命じます。そして、妻や子供や隣人に対する権利を守ることを命じています。
また私の宗教は、知識を求めることを命じます。理性、性格、思考を高めていくことを奨励しています。
私の宗教は、次のようなことを命じています:羞恥心。冷静沈着さ。寛大さ。勇敢さ。英知。落ち着き。忍耐。誠実さ。謙虚さ。貞淑さ。清潔さ。忠実さ。他人に良いことを望むこと。生活の糧を得るための努力。恵まれない者に対する同情心。病人のお見舞い。約束の履行。よい言葉。明るい表情で人と接すること。可能な限り、人を幸福にさせようと努力すること。
逆に、次のようなことを警告しています:無知。不信仰。無神論。宗教的な不服従。下品なこと。姦淫。高慢さ。嫉妬。憎悪。悪い憶測をすること。不吉がること。悲しみ。嘘。絶望。吝嗇。怠惰。臆病さ。無為。怒り。非行。愚かさ。他人に悪をもたらすこと。無駄な口数の多さ。秘密の暴露。裏切り。約束の不履行。親不孝。親戚関係の悪化につながること。子供の世話の放棄。全ての被造物に対する害悪。特に隣人への害悪。
また、イスラームは次のことを禁じています:飲酒。覚せい剤などの薬物摂取。ギャンブル。盗み。ごまかし。詐欺。人に恐怖を与えること。詮索。人の欠点や恥部をあら捜しすること。
私の宗教イスラームは、財産を保護します。それによって平和と安全が広がります。イスラームが誠実さを勧め、誠実な者を称え、彼らによい生活と来世における天国を約束するのは、そのためです。逆に盗みを禁じ、そのような行為をする者には、現世と来世における罰を警告しています。
私の宗教は生命を保護します。不当に他人の生命を奪うことを禁じ、たとえそれが言葉によるものであっても、あらゆる形による他人への危害を禁じます。
それどころか、自分自身に危害を与えることも禁じています。自分自身の理性、健康、生命を害することは禁じられます。
また私の宗教イスラームは、自由を保証し、規律づけます。イスラームにおいて人間には、思想の自由、売買の自由、取引の自由、移動の自由があります。食べること、飲むこと、着るもの、聴くものなど、よい生活を享受する自由があります。ただし、それが自分自身と他人に害をもたらさない限りにおいてです。
私の宗教は自由にルールを設けています。互いに侵害することは許されません。また、財産や幸福や人道を損ねてしまうような禁じられた楽しみは、許されません。
完全な自由を標榜し、宗教や理性による抑制もなく、欲望の赴くままに任せる人びとを見れば、彼らが不幸と苦悩の中にいることを知るでしょう。ある種の者たちは心配から逃れるために、自殺を望むほどです。
また私の宗教は、飲食、睡眠、人びととの話などにおいて、高い礼儀作法を教えてくれます。
また私の宗教は、売買や権利の要求などにおいて、寛容であることを教えています。宗教に関して意見を異にする人びとに対しては、寛大であることを教えます。それらの人びとに対して不正を行ったり、嫌がることをしたりしません。そうではなく、善行をほどこし、彼らによいことを望みます。
ムスリムの歴史を見れば、ムスリムが異なる意見の人びとに対し、それ以前にはなかったほどの寛大さを示していることが分かります。ムスリムたちは様々な宗教の人びとと共存してきました。ムスリムたちの統治下に入れば、彼らはそれ以前にはなかったほどのよい扱いを受けたものです。
イスラームは私に、細かい礼儀作法、取引上の倫理、高い品性を教えてくれました。それによって私の生活は美しくなり、喜びは増すのです。イスラームは私に、私の人生を汚すようなあらゆることを禁じました。社会的環境、生命、理性、財産、尊厳といったことを害することを禁じたのです。
これらの教えを受け入れれば受け入れるほど、私の幸福感は増大します。逆にこれらの教えにおいて適当だったり、いい加減であったりすればするほど、私の幸福感は減少するのです。
しかし私が間違いを犯したり、怠けたりもしない無謬な者というわけではありません。私の宗教は、私の人間としての性質を配慮してくれています。時々弱くなってしまったり、間違いや至らなさがあったりもします。アッラーへの悔悟(タウバ)、罪の赦しの祈り(イスティグファール)が用意されているのは、そのためです。悔悟によって私の至らなさは抹消され、アッラーのもとでの私の位階は上がるのです。
信仰箇条、道徳、礼儀作法、取引上の規定など、イスラームという宗教の全ての教えは、クルアーンとスンナをその源泉としています。
最後に、確信をもって申し上げます。世界のどこであっても、いかなる人であっても、イスラームという宗教の真実を公正かつ客観的な視点で見る者は、それを信じることになるでしょう。しかし問題は、イスラームという宗教が嘘の宣伝や、イスラームに所属しているある種の者たちの、イスラームとは無縁な行いによって、歪曲されていることなのです。
もしイスラームをありのままの形で知り、それを正しく実践する者たちの状態を見れば、人はそれを受け入れるに違いありません。イスラームは他人を幸福にさせ、平和や安全を普及させ、公正と善行を広めることへと招きます。
自らをムスリムと主張する、ある種の者たちの逸脱した行為を見て、その理由がイスラームだとし、イスラームを非難すべきではありません。むしろイスラームはそのようなことから無縁です。逸脱した者たちの逸脱は、彼ら自身へと帰されます。イスラームはそのようなことを命じてはおらず、むしろ彼らが行っているような逸脱行為を禁じ、いさめているからです。
宗教をきちんと実践し、その命令や規定を守っている者たちにこそ視点を当てるのが、本当の公正さです。そうすることによって、この宗教と信徒に対する敬意が生まれます。イスラームは、いかなる正しい教導や改善も勧めずにはおかず、いかなる悪や腐敗も警告し阻止せずにはいません。
それゆえイスラームの物事を大事にし、その儀礼を遵守する者は最も幸せな者となります。礼儀作法、教育、人格といった面において高みに到達し、近しいかどうか、意見を同じくするかどうかを問わず、あらゆる人びとがそのことを証言するようになるのです。
宗教をなおざりにし、正しい道から外れた者たちの状態にだけ目をやるのは、公正ではありません。むしろ不正です。
最後に。ムスリムではない方々に、イスラームを学ぶことをお勧めします。
イスラームを受け入れたい時には、「アシュハド・アッラー・イラーハ・イッラッラーフ・ワフダフ・ラー・シャリーカ・ラフ、ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・アブドゥフ・ワ・ラスールフ」(私は、唯一で、並ぶものがないアッラーの他に崇拝すべきものがないこと、ムハンマドがそのしもべで使徒であると証言します)と証言するだけでよいのです。また、アッラーから義務づけられた物事を達成することが出来るよう、宗教を学びましょう。学びと行いが増えれば増えるほど、幸福感は増大し、アッラーのもとでの位階は高くなるのです。