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イスラームの素顔

Dr.ナージー・イブラーヒーム・アル=アルファジュ

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

はじめに

 世界に広がりをみせているイスラームとわたしたちの日本社会。イスラームへの認識はわたしたち日本人にとってはまだ遠く隔てられた存在のように感じられます。異なる国や文化、慣習、言語などの枠組みを超え世界を席巻してきたイスラームはわたしたち日本社会との接点という意味においてとても稀少なものでした。東西に延び行く「イスラーム」というひとつの教え。今回は本書の翻訳にあたり、ムスリムたちが日常的に基盤とする信条や展望を彼らの視点に立って分かりやすく紹介しようと心がけたものです。本書にて相互の理解が深まりイスラーム世界を認識する上でその助力の一端でも担えればと切に願います。

本書はイスラーム世界で浸透する基本的事項の紹介などを中心に、イスラームが提示する徳をテーマとして、その一部の例を紹介するものです。それ故、本書を公平に、そして心を開いて読んでいただき、イスラームのありのままの姿を少しでも多くの方々に提供できればと願っています。

                         金子 貴弘訳

本文に入る前に、これらの言葉について紹介します。

アッラー

アラビア語でアッラーは、唯一無二の創造主である神のことを示します。そして、イスラームでは、全人類に対する唯一真正の神であると教えます。アラブ地域でのユダヤ教、キリスト教も同様に神を示す言葉として、アッラーという呼び名を用います。

ムハンマド

彼は、唯一なる神アッラーが全ての人類に遣わされた最後の預言者です(彼の上に平安がありますように)。

イスラーム

唯一なる神アッラーの意思に沿って服従、帰依するという意味です。

ムスリム

アッラーに服従、帰依する人々の事を指します。

クルアーン

唯一なる神アッラーが最後の伝達として、預言者ムハンマドに啓示した言葉を指します。

―イスラームへの旅―

イスラームでは唯一なる神アッラーが、全ての創造物を創造したとします。全ての人類、動物、地球、山々、海、川、植物、森、太陽、月、銀河、軌道、昼と夜をアッラーが創造したとするのです。他に私達が知りえるもの、もしくは知りえないもの、まだ発見されていないものも含め、すべての事物は、アッラーが無数に創造したものの一つの側面なのです。

アッラーは地上すべての生物に生を授け、時間や空間、エネルギー、物質を含む全宇宙を形成しました。その上、アッラーはその全世界とそこに存在するすべての事物の統治者であり、そこに起こりうるすべてのものの支配者でもあります。

しかしながら多くの人々は自己の存在は偶然の事象によって起こったものであり、単なる「自然現象」であると科学的な見方で言及します。それでは彼らが述べる「自然現象」とは? その意味を実際に、紐解いてみる必要があります。「自然現象」とは、一体何でしょうか?

あなたは私と同じように、自然現象が次に述べるこれらの事物を含むことに賛同するはずです。植物や惑星、軌道、銀河、谷、山々、海、川、地球、太陽、月、星、そして、その他の事物。これらの事物は自然に、もしくは人間の手によって創造されたものなのでしょうか?

クルアーンには次のように、美しく述べられています。

「人間よ、あなたがたの主に仕えなさい。彼はあなたがたやあなたがた以前の者たちを創造なされた。あなたがたはきっと正しく導かれるであろう。」(2:21)

「夜と昼、そして太陽と月を創造されたのはかれ(アッラー)である。」(21:33)

それに加え、「自然現象」を信用している人々は、神の存在を認めることができないと主張します。なぜならそれは単純に目に見ることができず、触れること、もしくはかれ(神)に対するそういった試みを行うことができないからであるとします。

2,3年前、アメリカのオレゴン州に住む私の隣人が、私の家を訪ねたときの話です。私達は神の存在について、幾つかの議論を交わしていました。私の隣人はとても年配な方で、神の存在を信じていません。彼は感情的にテーブルを叩き、こう言いました。「私は、このテーブルの存在を信じることができる。なぜなら私はそれに触れることができるし・・・感覚的に捉えることが出来るからだ!」

私は彼の論説を聞いた後で、部屋の中にあったランプを指し示し、彼にこう尋ねました:「あなたは電力の存在を信じることができますか?」彼はこう答えました:「もちろんさ!」私は続けてこう言いました:「あなたは光を引き起こす電力の存在を、見ることができますか?」「いや、(できない)」と彼は答えました。

また別の出来事として、ノルウェイのオスロのホテルでクリスという名の若い男性と彼の妻に面会したときの話です。彼らと親しく討論を交わしていたとき、私は彼に尋ねてみました:「人生の目的は何ですか?」と。彼はひどく驚いた様子で、こう答えました:「そんな質問を聞いたのは、これが初めてです!」それに付け加えて、彼は:「自分の人生に目的はないと思う。」と答えました。彼は結論付けてこう言いました:「自分はどの神も信じない。」私は彼に尋ねました:「どうして?」彼はこう答えました:「まだ見たことがないから。」

神が遣わした何千以上もの人々(預言者たち)と、それに続く何十億人以上の彼らの追従者たちは、人類の歴史を通して神の存在を明確なものとしてきました。理性的、論理的な手法はここに述べられた人々の(歴史的)証拠に注意を払わずして「科学的」な立場をとります。実際、科学的な論理は森羅万象の特徴や状況については説明しますが、「どうして」もしくは「誰が」これらを創造したのか?という質問に至ることはありません。事実、科学的証拠は、私達の周りに起こる森羅万象の存在は「偶然」によって成り立つ、というあいまいな立場を示します。科学的立場が用いる「偶然」という言葉は、単なる「説明」の一部分にすぎず、森羅万象、そして、そこに存在する自然に関する情報を提供する際に、説明的に用いられるものです。宇宙の存在とその自然は「ただ、このように生じているのです」という具合に示されます。

クルアーンの中では、こう述べられています。

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

言いなさい、「かれはアッラーであり、唯一なる御方。アッラーは、自存され、 

御産みなさらないし、御産れになられたのでもない。彼に比べ得るものは、何も

ないのである。」(112:1-4) 

これはクルアーンの中にある一つの完全な章です。この章が示す僅かな言葉の並びの中には簡潔に唯一なる神(アッラー)についての真実性とその属性が示されています。そして、それは同時に何百万人もの人々が直面している困難、そして重要な疑問に対しての明確な答えでもあるのです。 

平安

私達は心の平穏や満足だけでなく、精神的、社会的、そして世界的な平和を、クルアーンと預言者の伝承というかけがえのない遺産を通して達成することができます。

要約すれば、イスラームはそれら二つの真正な典拠を基にして教示されます。 クルアーンと預言者の伝承は、私達が唯一なる神(アッラー)を信じることにより、心の平安と幸福、魂の救済を獲得できると述べています。また、私達は神が遣わしたすべての正しい預言者たちをも、信じなければなりません(預言者ムハンマドも含みます)。そして彼らの正しい導きと、その教えに従うことが求められるのです。

しかしながら、イスラームではアッラーを唯一なる神と信じ、かれの預言者たちを信じるだけでは、心の平安や幸福(安寧)、魂の救済を得るには十分ではないと説いています。

私達はアッラーのみを崇拝し、かれの命を遵守することによって、アッラーの意志に沿わなければなりません。

アッラーの意志に従順に従うことは、アッラーが教示するところの本質の部分です。かれに従順に従うことの意味を誠実に理解し、アッラーを信じて善行に励んだ者に対して、アッラーは報奨を準備されています。   

クルアーンの中では、こう述べられています。

「本当に、信じ、正しい行いに励んだ者たちは、楽園の園を来世の住処として得ることになろう」(18:107)

同様に、聖書の報告の中にはイエス・キリストの兄弟、ヤコブの言葉としてこう述べられています。

「ちょうど魂の抜けた身体が死んだものであるかのように、行為の伴わない信仰も死んだようなものである。」(ヤコブの手紙 2:26)

興味深いことに、同書(ヤコブの手紙 4:7)では前述で述べたイスラームの意味がはっきりと触れられています。

「あなた自身、神に服従するのです」(ヤコブの手紙 4:7)

それ故ムスリムは、イエス・キリストと彼の前に遣わされた数多くの預言者たちの、正しい追従者でもあるのです。「ムスリム」とは、「自らの意志を唯一の正しい神に服従させる者」という意味です。ムスリムはアッラーが唯一の正しい神であるという確信を持ち、正しい行いを心掛けます。彼らはイエス・キリストや先の預言者たちが教え、行ったように従い、神の命ずるところに服します。その例としては、唯一真実の神のみを信仰すること、礼拝を行い、その際にひれ伏し、膝まずくこと、斎戒し、施しを与え、慈悲を投げかけること、「(予定や後々に起こること等に対して)アッラーの御心ならば」(インシャー・アッラー)と言うこと、イエス・キリストや先の預言者たちの挨拶である「あなたの上に平安がありますように」(アッサラーム・アライクム)という言葉を使うこと等があるのです。

これらの既述された、いくつかの例と根拠の一部分は、全ての預言者たちが説いた美しい教え、つまり「イスラーム」の明白な真実性、統一性、そして普遍性を示します。

実際の話として、ムスリム、もしくはムスリムになるつもりの人々は、6つの信条を信じなければなりません。

6つの信条

1、(唯一なる神として)アッラーを信じること

かれの存在とかれの唯一性、そして、かれが唯一崇拝に値する存在であると信じることです。

2、アッラーの天使たちを信じること

天使たちはアッラーを称賛するため、かれ自身によって創造されました。彼らはアッラーの命令に従い、かれの命令を実行します。

3、アッラーの啓示を信じること

アッラーが先の預言者モーゼやイエス・キリスト等に啓示された、本来の言葉が含まれます(それらは人間の手によって付け加えられ、改変されて物語られているものではありません)。イスラームが保持するクルアーンは、預言者ムハンマドに伝達されたアッラーによる最終啓示であり、それは一言一句変わることなく現存し続ける最後の言葉です。

4、アッラーの使徒たち、そして、預言者たちを信じること

それは、アダムに始まり、ノア、アブラハム、モーゼ、そして、ヨハネ、イエス・キリスト、ムハンマドが含まれます。それ故、もしムスリムがモーゼやイエス・キリストの存在を創造主アッラーからの使者であると信じなかったとすれば、彼らは本当の信仰者とは言えないのです。

5、最後の日を信じること

それは、審判の時、説明責任を問われる瞬間です。全ての人間はその日、アッラーによって彼らの現世での信仰や言行を問われます。審判の最後には誰が永遠の生活(楽園)を獲得し、また、誰が地獄の業火に投げ込まれるかの判断が下されるのです。

6、定命を信じること

それは神が命ずる運命であり、全知者であるかれのみが知る究極の知識です。これに関し信仰者は、アッラーに全幅の信頼を寄せます。彼らは自分の身に降りかかるいかなる吉事、凶事と思われる出来事に対しても、アッラーが定める運命としての満足を覚え、そして確信をもって受け止めるのです。信仰者は自らが危機や困難に直面した際に絶望や失望、落胆や悲観的な状況に陥るというようなことのないように努めます。彼らはアッラーに対して救いや援助、運命を受け止めることへの報奨を求めるのです。

このアッラーが命ずる運命、そして、それに対してムスリムが持つ信条は、彼らが経験するであろう偏見や差別、中傷等に対し、アッラーが定められた運命としての認知とそれに対する満足を覚え、忍耐するよう促します。

簡単に述べたこれら6つのイスラームの信条は、信仰者にとって信じなければならない項目なのです。

5つの柱

先に述べた信条(理論的な側面)に加えて、イスラームではその信仰を行動に移すよう、私たちに説いています。ムスリムは生活の中で一般的な善行に勤しむだけでなく、他に5つの基礎であるイスラームの柱を実践しなければなりません。次に述べる容易かつ簡潔なこれらの項目が、イスラームの実践である5つの柱です。

1、 シャハーダ(証言)

私はアッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒であることを証言します。

アラビア語で唱えた場合、次のようになります。

アシュハドゥ アッラー イラーハ イッラッラーフ ワ アシュハドゥ アンナ ムハンマダン ラスールッラー

これは人がイスラームを受け入れた際に、声に発して唱えなければならない証言です。それはイスラームの美徳と容易さを示します。

2、サラー(礼拝)

日々、執り行われる5回の義務の礼拝には起立の姿勢や立礼、平伏、またクルアーンの中からの一部分の読誦とアッラーへの称賛、想起等が含まれています。また、それはアッラーに対して、慈悲と赦しを請い、天国を求める行為でもあるのです。

礼拝の美点と効力については、 精神的な成長と心理的な快さ、苦痛や心配の軽減、静寂や満足感等を私達の魂や思考、心にもたらします。

またそれら礼拝の美点に付け加え、アダムやノア、アブラハム、モーゼ、イエス・キリスト、そして、ムハンマドといった唯一なる神が遣わした預言者たちは、唯一なる神であるアッラーに対して自ら礼拝を行い、平伏していたのです。

さらに他の多くの優れた概念として、アッラーの慈悲を感受し、かれに対しての服従や身を委ねる姿勢、嘆願や調和のとれた平等的立場、誠実さ、そして、忍耐や謙遜、従順な姿などを、礼拝を行う者の動作の中にはっきりと見受けることができます。

実際、誠実さと謙遜をもって「ズィクル」(アッラーを思い起こすこと)や「ドゥアー」(祈願)、「イスティグファール」(アッラーに赦しを乞うこと)、そして、サラー(礼拝)をアッラーだけのために行うことは心の安静や平穏、祝福を得るための重要な「鍵」なのです。

「これら信仰した者たちは、アッラーを唱念し、心の安静を得る・・・」

(13:28)

「あなたがたの主(アッラー)は仰せられる。

『われに祈りなさい。われはあなた方に答えるであろう』」(40:60)

3.ザカー(喜捨)

義務の一つとして、個人の財産から一定量の富を貧しい人々や、それを必要としている人々に対して与えることが定められています。ザカー(喜捨)、施し物は貪欲な性格、欲深さから私たちを浄化してくれます。それは私たちの財産や富を浄化し、そして私達に思いやりや分け与えの精神を教示してくれるのです。裕福な人と金銭的に貧しい人との間で相互に慈しみ合いや敬意を払うことは、お互いの強い絆を築きます。実際それは、支え合うことや援助、協力し合うこと、また一個人としての社会での連帯意識を助長してくれるのです。

4、サウム(斎戒)

サウム(斎戒)はすべての食べ物や飲み物の摂取、また配偶者との性交を特定の時間帯(夜明けから日没までの間)に自制することを指します。サウム(斎戒)は以下のような、いくつかの利点と教訓を含んでいます。

・精神面での美徳

それは、アッラーに対する「畏敬の念」(タクワ―)を高め、誠実さを増します。斎戒月であるラマダーン月は、アッラーからの慈悲と罪の赦しを得るため、また地獄の業火よりの救いと永遠の生活、天国を得るためのとてもよい機会なのです。

・道徳、感情面での美徳

私たちはラマダーン月の教訓によって、世界中の各地域では不特定多数の人々が空腹の状態で苦しんでいるということを知り、経験します。それは、私たちが他者と分かちあうことや気持ちを理解すること、そして謙虚な姿勢や寛大な心で親切に振舞うことを促すのです。

・教育面での美徳

斎戒は他にも多くの教訓を私たちに示します。例えとしては、度を越して食することの悪い習慣を改めること、もしくは放棄することを可能とします。または、自らの行動を自制、克己するように私たちに教示します。さらに、ムハンマドやモーゼ、イエス・キリストのような、唯一なる神が遣わした預言者たちが、過去にも斎戒を行っていたことをも私たちに想起させるのです。

・健康面での美徳

斎戒の一要素である断食の過程を通して、体は毒素や余分な脂肪を取り除かれます。医師や栄養士たちは断食を推奨し、「rubbish-burner(老廃物の燃焼)や 「curative therapy(根治療法)」として表現します。断食は様々な病気に対してのよい治療法なのです。

これら先に述べたことは、ラマダーン月の斎戒がもたらす美徳と利点の一部です。

5、ハッジ(巡礼)

ハッジとは、全てのムスリム男女に課せられた、生涯で一度のマッカ巡礼の事を示します。それは彼らが身体的、精神的そして金銭的な余裕から遂行可能と見出された際に課せられる義務行為の一つです。既述されたイスラームの柱やそれに伴う教義のように、巡礼には多くの美徳や教訓、利点等が含まれています。何百万人もの(異なる肌の色や人種、そして世界中の各地域から集った)信仰者たちが、預言者アブラハムの呼びかけに答えるのです。巡礼が行われる期間中には、イスラームの驚くべき根源とその概念を見ることができます。それは、アッラーに対しての服従や恭順、イスラームの同胞愛と一個人としての認識、忍耐や犠牲、嘆願や施し、そして斎戒等です。イスラームの巡礼(ハッジ)では、人間の歴史における最大規模かつ他に類のない宗教行事としての、人々の参集を見ることができます。そのようなすべての人種や肌の色を含む大規模な人々の召集で、彼らは唯一なる神に仕え、唯一のメッセージに従うのです。ハッジのためマッカを訪れた際、マルコムXや他の人々は、イスラームの同胞精神や平等的立場など、真実の信仰としての教訓と美徳を学んだのです。

「巡礼での体験は私の視野を広げてくれた。私に新しい見識を与えてくれたのだ。聖地での二週間はアメリカ生活39年の中で、自分が見たことのない光景だった。すべての人種、肌の色(青い眼の者、色白の者から黒い肌のアフリカ人まで)を目にしたのだ。彼らは真実の兄弟愛を持っていた。一つの共同体だった。共に生き、共に一個人として崇拝行為に専念している姿がそこにはあった。」  

                            ―マルコムX―

クルアーン

クルアーンとは、人間の生き方を規律立て、統治するために唯一なる神(アッラー)によって制定された啓示のことを指します。それは創造主の完全な知識に基づき、かれの創造物について述べられたものです。クルアーンは私たちを真実へと方向づけ、人類を真実の道へと招き入れます。それは人間の宿命に対する重要な情報を含みます。人々がそれを理解しようと努め、その訓戒を適用した時、クルアーンは人々を諭し、気高い精神を育み、道徳心、知力、社会的地位を高めてくれるのです。クルアーンは預言者性を示す確固たる証拠として、最後の預言者ムハンマドに授けられた、一つの不変性を帯びた奇跡的出来事です。それは唯一無二にして、比類なき性質を備えています。14世紀も前に啓示されたクルアーンは、その元来のアラビア語様式を留め、完全無傷の状態で不変性を保ちながら今尚、現存しているのです。

唯一なる神がもたらす広大な言葉とその英知の中から、いくつかの洗練されたクルアーンの節を読者の方々と共有できることを切に願います。しかしながら、本書のこの限られたスペースの中でどの節を紹介するべきか、その選択は私にとって非常に困難なものです。それ故、唯一なる神から下されたこれらの言葉が持つ特性を知るためにも、読者の方々は個人的にクルアーンに目を通されることをお勧めします。クルアーン原典の写本を入手されるか、もしくは信頼のおけるイスラームのウェブサイトを活用してみてください。

確かに、アッラー、そしてイスラームは、平安や慈悲、寛容を起点としたものであり、憎しみや殺戮、テロ行為を根源としたものではありません。それ故、イスラームでは魂の救済や永遠の生活を得ることを目的とし、アッラーに立ち返り、アッラーのみを信じ、そして善行に励むことを勧めるのです。無実の人や正しい行いの人が他人の罪を背負うことはありません。イスラームはそれに従う者(ムスリム)に対し、他者へ寛容に振舞うよう教示しています。これは、イスラームが示す美しい観点です。実際、イスラームは慈悲と寛容の宗教なのです。

公正

「あなたがた信仰する者たちよ、アッラーのために堅固に立つ者として、正義に基づいた証人であれ。人々を憎悪するあまり、あなたがたは(仲間にも敵にも)正義に反してはならない。正義を行いなさい。それは最も篤信に近いのである。−」(5:8)

イスラームでは仲間であれ敵対者であれ、すべての人々に対して公正に振舞ように教えています。また、それは平和な時であっても戦時であっても、いかなる時であれ同様の事がいえるのです。

またイスラームではそれに従う者たちに対して、彼ら自らが個人の気まぐれな思いつきや社会的、文化的な事情から離れ、無条件に公正さと道徳を持って行動するように教えています。

「誠にアッラーは、あなたがたが信託されたものを、もとの所有者に返還することを命じられる。またあなたがたが人の間を裁く時は、公正に裁くことを命じられる。」(4:58)

実践すべきものとして明示される美徳、不変の価値観、慈悲、そして公正さのように、イスラームではムスリムの学識者たちが示す5つの必要事項を守るよう、私たちに命じています。

―5つの守られるべきもの―

イスラームではムスリムに対して彼ら自身、そして他者に対し次に示す項目を守るように命じます。

1、宗教 2、生命 3、理性 4、名誉(尊厳)5、財産(私達が所有する全てのもの)

自由と宗教の保護に関して、クルアーンでは次のように述べられています。

「宗教に強制があってはならない―」(2:256)

このようにイスラームでは、人間全体に対する敬意を示し、いかなる人であっても力によって宗教に帰依するよう強いられることはありません。これはイスラームの誠実さ、美徳、優しさ、寛容さであり、ムスリムがムスリムでない人々に対して振舞うべき態度なのです。それ故、私たちは他者を判断する際、実直で客観的に、そして公正に振舞わなければなりません。アッラーは私たちに対し、クルアーンの中でこのように述べています。

「あなたがたは(仲間にも敵にも)正義に反してはならない。正義を行いなさい。それは最も篤信に近いのである―」

現今、何千もの思慮分別に富んだ、客観的で誠実な、心の広い世界中の男女がイスラームを受け入れる姿が日々見受けられます。彼らがいかにしてイスラームに立ち返ったかの経緯は、多くの書籍や記事、インターネットのウェブサイト上で見ることができます。

さらに、最近のアメリカやヨーロッパの地域ではイスラームが最も急速な成長を遂げている宗教として報告されているのです。

なぜ、イスラーム?

「人々よ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。本当にアッラーは、全知にしてあらゆることに通暁なされる。」(49:13)

イスラームからは、卓越した平等の概念を確認することができます。預言者ムハンマドは別れの巡礼の際、最後の説教として次のように述べています。

「人々よ、あなた方の神は唯一であり、あなた方の父祖は一人である。あなた方はすべてがアダムの子孫であり、アダムは土から創造された。アラブの民がアラブ以外の民よりも優れているわけでもなければ、アラブ以外の民がアラブの民に優っているわけでもない。白い肌の人種が黒い肌の人種に優っているわけでもなければ、黒い肌の人種が白い肌の人種よりも優れているわけでもないのだ。あなたがたは平等である。誰もアッラーに対する畏敬の念と善行を除いて、他の人々よりも優れているということはない。」

※イスラームでは人種、肌や眼の色、国籍などによって他者を嫌悪、もしくは見下すことのないよう教示しています。

※イスラームは世界で起こっている人種、民族間の衝突、差別に対する実践的な改善法でもあるのです。

イスラームの中で黒い肌の人種、白い肌の人種は、同じ人類としてのまさに同胞にすぎません。彼らは皆同じくして土より創造されたアダムを父とするのです。このように、私たちは土から来たのであり、やがて再び土に還ります。私達がクルアーンと預言者の最後の説教から見出すことのできる上述の言葉は、一つの重要な教訓です。そして、これはマルコムXがマッカ巡礼のために訪れた際、現地で得た教訓でもあるのです。それなのに、なぜある種の人々は他者に対し、横柄さや間違った自尊心に基づいた感情や行動を示すのでしょう?

「言いなさい、『わたしたちはアッラーを信じ、わたしたちに啓示されたものを信じます。またイブラーヒーム(アブラハム)、イスマーイール(イシュマエル)、イスハーク(イサク)、ヤアコーブ(ヤコブ)、と諸支部族に啓示されたもの、とムーサー(モーゼ)とイーサー(イエス)に与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。かれらの間のどちらにも、差別をつけません。かれにわたしたちは服従、帰依します。』」(2:136)

ムスリムはアダムやノア、アブラハム、イシュマエル、イサク、ヤコブ、モーゼ、イエス・キリスト、そして、ムハンマド(彼らの上にアッラーの平安がありますように)を含む、唯一なる神が遣わしたすべての預言者たちを敬愛し信じます。

預言者ムハンマドは、次のように述べています。

「私はすべての人類の中で、マリアの息子イエス・キリストに最も近い。私と彼(イエス・キリスト)の間に預言者は存在しない。預言者たちは実に兄弟的な間柄である。彼らは母の母胎を異にするが、彼らの宗教は一つである。」

「アダムとイヴの信仰」

リンダ・バート筆(アメリカ合衆国)

 神がアダムとイヴに命じた宗教とは、何だったのでしょうか?クルアーンによれば、私たちのために神が選ばれた宗教は、平易で完全な神への服従でした。それはアラビア語で、「イスラーム」と呼ばれます。それはクルアーンの中で、アブラハムの宗教として述べられているものです。彼(アブラハム)自身も、神に対して純粋に服従した人物でした。全ての人々は神に服従する魂と共に生まれてくる、というのがイスラーム的観点です。しかしながら人は、自分たちの創造された公正な生き方に対して従うことも、またその道から逸れてしまうことも自由に選択することができるのです。各人は人生において何度か、神に自らの意志を服する道、もしくは自らの利益や物質的追求、不信心な態度を決め込む道のいずれかを決定する、個人的な判断を下さなければなりません。もちろん多くの人々が、真実や正しい道から離れてしまうこともあります。それらの要因として両親の不信心や乱暴な発言や態度、もしくは精神的な教育の有無等といった生活環境が関係してくることがあるのです。イスラーム的な観点では、各個人の理解や先天的な性質に基づき、唯一なる神の判断が下されます。私たちは、審判の時に下される唯一なる神の決定が、必ず寸分違わない公正なものであると確信しています。人が自身の全てを神に服する時、人間に存するすべての側面-思考や身体、そして魂など-は、神に対してささげられたものでなければなりません。自己の魂を、礼拝やその他の重要性を帯びた不可欠な崇拝行為を通じて、汚れの無い状態に保つことは必要であり、意識を健全な知識に向けること、そして身体を健全な生活様式に従事させることも重要なのです。イスラームは私たちが創造された目的を、私たち自身によって認識する機会を提供してくれます。ムスリムになることによって、これまでの多々なる重荷を背後に残して行くかのように、生来の自分を手にするのです。イスラームの真実とは、物事を識別し、偽りを放棄する助力を与え、全ての宗教に対する真実性を詳述することの明示なのです。イスラームを受諾する人々は、世界中に広がりを見せています。

※ リンダ・バート氏はアメリカ人の作家、詩人、芸術家でもあります。

最後の預言者

 西暦570年頃、ムハンマド(彼の上に平安がありますように)はアブドッラーの息子としてマッカに生まれました。彼は人々の間で、アル・アミーン(信頼のおける人)として知られます。ムハンマドが40才になった時、天使ガブリエルが、彼の前に神の啓示を携えて現れました。ムハンマドが最初に受けた命令は、彼の妻ハディージャを含めた近親の人々に対して、イスラームを教示するというものでした。そして、ついには全ての人々に対してメッセージを伝達するようにとの啓示を受けることになります。それ以降、彼は優れた手本を示す、人々への最良の模範として、アッラー(唯一なる神)のメッセージを他の人々に伝えました。西暦632年、預言者ムハンマドは享年63才にしてこの世を去ります。

預言者ムハンマド(彼の上に平安がありますように)は「最後の預言者」と呼ばれます。すなわち彼は最終の預言者であり、またイエス・キリストの福音書のオリジナルを含む、彼以前に啓示された全ての真実を確証するために遣わされました。

クルアーンの中では、こう述べられています。

「ムハンマドはアッラーの使徒であり、そして預言者たちの封緘である」(33:40)

彼(ムハンマド)とイエス・キリストとのつながりを確証するものとして、預言者ムハンマドは言及しています。「もし、人がイエス・キリストを信じ、その上、私のことを信じるのであれば、彼は二倍の報奨を得るであろう。」

また、預言者ムハンマドは述べています。

「私は全人類の中で、マリアの息子イエス・キリストに最も近しい人物である。私と彼との間に預言者は存在しない。」

預言者ムハンマドによるこれらの発言は、彼がいかにイエス・キリスト(神の祝福と平安が彼らの上にありますように)に対して敬意を表していたのかを、私たちに明示してくれます。これはイエス・キリストが福音書の中で予言したものでした。私はその事実を後に紹介するつもりです。

ムハンマド

ムハンマドはその幼少時代、青年期、預言者時代、そして、この世を去る最期に至るまで、その卓越した性格と道徳的振る舞いによって、多くの人々を魅了しました。彼は慈悲深く正直で、誠実さと優しさを兼ね備えた謙虚な人物でした。彼の私的な部分から公的な発言に至るまでの全ての詳細は正確に、そして確実な記録として、現在に至るまで忠実に保存されています。彼は預言者であり、使徒であり、敬虔な指導者でありながら、社会を改革し、道徳的姿勢へと導き、政治を司りました。これに関しインドの哲学教授であるラーマクリシュナ・ラオ氏は彼の小冊子「ムハンマド―イスラームの預言者―」の中で、彼のことを「人間の生き方の完璧な模範」と称しています。ラオ教授は明らかにします。

「ムハンマドの人格の全ての側面を知るということは、非常に困難な業です。その僅かな一部分であれば、私にも可能かもしれません。この見事な成功劇はまるで絵にかいたようなものです。ムハンマドは預言者であり、軍人であり、商人であり、政治を司り、雄弁家であり、改革者であり、孤児を擁護し、奴隷の保護者、女性の解放者であり、裁判官であり、慈悲深い人物です。これらの壮大な役割を、すべての人間活動の面において成し遂げた彼は敬慕の的(英雄)なのです。」

預言者ムハンマド―他宗教の聖典における預言者ムハンマド到来に関する記載―

 本書では、他宗教の聖典による預言者ムハンマド到来の予言を主題として取り扱うことはしませんが、ムスリムの学識者たちがバルシ―教(インドのペルシア系ゾロアスター教徒の一派)、ヒンドゥ―教、仏教、ユダヤ教、キリスト教の聖典の中でそれを発見していることを取り上げなければなりません。実際、他の聖典の中で登場するムハンマドは、インターネット上はもちろんのこと、数多くの書籍や論考の中でとても興味深い話題として徹底的な議論が取り交わされてきました。(このテーマに関してさらに情報を得たい方はDr.Zakir Naik(Dr.ザーキル・ナイク)のウェブサイト、www.irf.net もしくはインターネットの検索項目にProphet Muhammad, Muhammad in the Hindu scriptures, Muhammad in the Bible 等と書き込んで検索してみて下さい。)書籍の取り扱いとしてはA.H.VidyarthiやU.Aliが執筆した「バルシ―、ヒンドゥー、仏教の聖典の中に見るムハンマド」、または、アブドル・アハド・ダ―ウード教授(元キリスト教聖職者デヴィッド・ベンジャミン)の著書、「聖書の中におけるムハンマド」等が挙げられます。その中では聖書の予言にある、「モーゼに類似した」預言者の出現について次のようにコメントしています。

「私たちは以下の言葉を申命記(旧約聖書第五の書)第18章、18節に見ることができる。

『わたしは彼らのために、彼らの同胞の只中から、あなたのような一人の預言者を起こそう。わたしは、わたしの言葉を彼の口に置く。彼は、わたしが彼に命じたすべてのことを、彼らに語るであろう。』

これらの言葉がもし、ムハンマドに当てはまるものでないとするならば、彼らは未だにその実現が果たされないままの状態にあることを意味する。イエス・キリストは彼自身、彼の教会で信じられているように自らがその預言者であると主張することは決してなかった。審判者として現れうるだろうが、立法者としてで 

はない。だが、必ず一人の人物が『彼の右手』に『法(きらめく炎)』を携えてやって来る。(申命記33:2)」

ムスリムの学識者たちは、この予言はほかならぬムハンマドに当てはまるものであるとします。なぜなら、モーゼとムハンマドを見比べた際に数多くの点で類似していることが確認できるからです。彼らの名前を見た際、両者ともに同様の頭文字で記されます。彼らは両者とも自然な出産によって誕生し、結婚し、使命を授かり、そして、自然な形で死を迎えたのです。彼らはまた、両者ともに預言者であり、統治者であり、民を指揮し、政治を司りました。そして、両者ともに「法」を携えてきたのです。一方でイエス・キリストはいくつかの点で、モーゼに類似していない点があります。彼の超自然的な誕生の仕方に始まり、使命の授かり方、この世の去り方など、モーゼのそれとは類似しない点があるのです。また結婚をすることはなく、モーゼのような形で民を統制することも、戦争で戦うこともありませんでした。

イエス・キリストも、新約聖書の中でもう一人の弁護者が来ることを予言しました。イエス・キリストは公言します。「父はもう一人の弁護者を、(その弁護者が)いつまでもあなたがたと共にいるようにと、あなたがたに与えてくださることになろう。」(ヨハネ 14:16)

加えてイエス・キリストはこう述べます。

「それにもかかわらず、私はあなた方に真実を伝える。私が去ることはあなた方にとって良いことである。もし、私が去らなければ弁護者はあなた方のもとにやって来ないであろう。だがもし、私が立ち去れば、私は彼をあなた方に遣わすだろう。そして、彼が現れた時、彼は罪の蔓延した世の中を戒め、正義を掲げる。そして、審判の時・・・。私はまだ、あなた方に対し数多くの言うべきことがある。だが、あなた方は今の段階でそれらの重荷を背負うことはできないであろう。彼が真実を携えて現れた時・・・一体どうなるであろうか。彼はあなた方を真実に導く。彼は自分でものを言うわけではない。本当に彼は聞き、そして、語りかける。彼は後に到来する出来事をあなた方に告げ知らせるであろう。彼は(神)の栄光を称える・・・」(ヨハネ 16:7一14)

イエス・キリストの後に遣わされる人物

実際、ムスリムの学識者たちは、多くの理由によりイエス・キリストの予言を完全に満たしうるのは、ムハンマドだけであると述べています。そのいくつかについて言及してみると:

※ イエス・キリストが言及する「もう一人の弁護者」という表現は、聖霊(三位一体の第3位)に適用することはできません。聖霊(三位一体の一部分、キリスト教徒が信仰する父なる神、キリストとして世に現れた子なる神、聖霊なる神)は聖書によれば以前、そしてイエス・キリストが伝道する間に見られるものです。一方でここに述べられる「弁護者」とはそれよりも後に出現するものとされるのです。

※ さらに、ムハンマドは、罪を犯す人々に対して警告者として現れ、正義を貫くよう命じます。彼は「法」を「彼の右手」に携えた統治者であり、裁定者だったのです。

※ ムハンマドは、唯一真正の神へと人々を導きました。そして現世の目的、来世とその永遠性の真実など、多くの事柄について教示したのです。

※ 彼は、唯一なる存在(アッラー)により授けられた、数々の預言と奇跡を通じ、後に起こる出来事を私たちに示しました。

※ ムハンマドは預言者であり、勝手気ままにものを言うわけではありませんでした。彼は、自らを通して神が啓示した言葉、つまり、クルアーンの受け皿となりました。そして、ムハンマドはアッラーの名において神の言葉を読誦します。聖書の予言では、このように述べられています。「彼は私の名において語りかけるであろう」(申命記18:19)。事実、クルアーンの章は「アッラーの御名において」という表現で始まるのです。

※ ムハンマド、そしてクルアーンは、実際にイエス・キリストを高貴な存在として称えています。彼に敬意を表す意味も含め、ムスリムたちは自分の子供たちにイーサー(アラビア語でイエスを意味します)と名付けることを好むのです。

それに加え、あるユダヤ人が(キリストに洗礼を施した)バプテスマのヨハネにあなたは誰なのかと尋ねたところ、彼は自身をイエス・キリストでも、エリヤでも、その後に現れるという預言者でもないと否定します。

「−あなたは誰ですか?そして、ヨハネは打ち明けます。私はイエス・キリストではありません。そして、彼らは尋ねます。それならば、あなたはエリヤですか?彼は言います。−いいえ−。あなたはあの預言者ですか?彼は答えます。−違います−。」(ヨハネ 1:19−21)

再び、ムスリムの学識者たちは、この聖書の一節で言及されているその人物がムハンマドであると主張します。

「あなたはあの預言者ですか?彼はこう答えます。−違います−。」だとすれば、ここで言及される預言者とは誰なのでしょう? 明確なこととして「あの預言者」とはバプテスマのヨハネでもなければ、イエス・キリストでもないということをヨハネ自らが証言しているのです。

ムハンマド ―名士たちのコメント­―

預言者ムハンマド(彼の上に平安がありますように)という人物像は、これまでにも大きく取り上げられて来ました。以下はその一部として、著名な名士たちによって述べられたものです。

ラマルティーヌ(フランス人歴史学者)は次のように述べます。

「偉大な目的、微小な資力、そして、顕著な結果は人間の天分を判断する際の基準である。近代史のあらゆる偉大な人物の中で、あえてムハンマドと比較することのできる人物はいるだろうか?」

そして、彼は結論付けます。

「人間の偉大さが評価されることによって得られる全ての尺度に関し、私たちは十分に問うてみるがいい。どの人物でも彼以上に卓越したものはいるだろうか、と。」(Histoire De La Turqvie, Paris 1854 )

ミカエル・H・ハート氏は、彼の著書 The 100−歴史上で最も重要な役割を果たす人物の格付け−で次のように述べています。

「世界で最も影響を及ぼした人物リストの最初にムハンマドを載せた私の選択は、読者たちを驚かせ、また他に至っては疑問に思われたかもしれない。しかし、彼は歴史上で唯一、宗教と世俗の双方ともに、この上ない成功をおさめた人物だったのである。」

ハート氏は次のように結論付けます。

「この世俗と宗教の無類の組合せが及ぼした影響力を見たとき、人類の歴史上で最も影響を及ぼした人物の一人として、ムハンマドにはその資格があると考えるに至ったのだ。」

彼の著書「The Genuine Islam」(真のイスラーム)の中でジョージ・バーナード・ショー卿(アイルランド生まれの英国の劇作家・批評家)は言っています。

「もし、彼のような人物が現代の世の中で指導者であったなら、彼は平和や幸福をこの世にもたらすために多くの問題を解決し、成功を収めたであろう。」

ショー卿はこう付け加えています。

「彼はこれまで地上に足を踏み入れた者の中で、最も注目すべき人物である。彼は宗教を説き勧め、地位を確立し、社会的共同体を築き、道義的規律を広め、数多くの社会と政治の改革に着手した。そして、彼の教義を実行し、表現した、強力で精力的な社会を建設し、世界の人々の思考と行動を完全に大改革したのである。」「The Genuine Islam」(真のイスラーム 第一巻 1936)

マハートマー・ガーンディーは指摘します。

「その当時の状況の中で、イスラームは武力によって地域を拡大していったのではないと十分に信じきれるようになった。自らが預言者であると驕るわけでもなく、約束に対しては誠実であり、彼の仲間や従者に対する振舞い方はとても献身的なものであった。彼の勇ましさや動じない姿勢は、絶対的な神への信頼と、自らの使命に対する純粋で堅い決心の表れである。」(ヤング・インディア新聞)

ウォルフギャング・ゲーテ(ヨーロッパ―ドイツ―の詩人)はこう信じて、言います。

「彼は一人の預言者であって詩人などではない。それゆえクルアーンは神聖な神の教えであり、教育や娯楽のため、人間によって創作された書物ではないのだ。」(Noten und Abhandlungen zum Weststlichen Dvan, WA l,7,32)

さらに、最近の研究でジョン・エスポージト氏(宗教と国際情勢を専門とする大学教授であり、聖十字架大学・国際研究センター所長、また、アメリカ合衆国ジョージタウン大学・ムスリムとクリスチャンを理解するためのPABTセンター創立責任者)は、彼の著書「イスラーム―正しい道―」の中で、こう指摘しています。

「ムハンマドは、預言者たちや宗教の創設者など、主要な宗教に携わる人物たちの中で注目に値する品位とすばらしい人格、著しいまでの信頼度と責任感を備え持っていた。彼に従うものたちを引きつけ、アラビア半島に統一社会を築いたこの驚くべき成功は、彼が軍の戦略に秀でていただけではなく、彼が並外れた人物であったこと、つまり彼の公正さ、信頼のできる人柄、敬虔さ、正直さ、そして、憐れみ深さなど、彼に従うものたちが理解する独特の人物像がそこにあったことを示している。」(エスポージト 2004)

彼は明らかにします。

「ムハンマドはイスラームの創立者などではない。つまり、彼は新しい宗教をもたらしたのではない。」

エスポージト教授はこの事実を強調します。

「イスラームは革命をもたらした。それは完全な 『封緘』であり、最終預言者としてのムハンマドに啓示された、アッラーへの完全な服従(つまり、イスラーム)への回帰であり、かれ(アッラー)の意志を履行することへの再なる呼び掛けである。このように、ムハンマドにとってのイスラームは新しい信仰形態などではなく、真の信仰への復帰なのである。」

伝承

以下では、預言者によって述べられた事柄の一部を紹介します。

※ 一人の男がアッラーの使徒に尋ねました。「イスラームで一番良い行いとは何ですか?」彼は答えました。「あなた方が知っている者、知らない者のいずれにも食べ物を分け与え、挨拶をすることです。」

さらに、預言者ムハンマド(彼の上に平安がありますように)は言います。

※「アッラーは、あなた方の身体や外見によって人を判断されるのではないことを知りなさい。かれはあなた方の心の動きや行いを見ておられるのです。」

性質

ムハンマドが、マッカに入り、偶像崇拝や多神教からマッカを解放したとき、マッカの敵対者に対する彼の処遇は次のようなものでした。

ムハンマドとムスリムたちは大きな勝利を収めたことで最高の喜びをかみしめ、歓喜と大きな満足のもと聖都マッカに凱旋しました。預言者ムハンマドは、過去にムスリムたちを虐殺したことに対する報復に恐れをなしたマッカの人々を集めます。

ムハンマドは尋ねました。

「私があなた方に対し、何をするか分かりますか?」彼ら(マッカの人々)は答えました。「あなたは仲間に対して寛大で、私たちの名誉ある兄弟の息子です。」その時、優しく、寛容で、憐れみ深い預言者は彼らを赦し、次のように告げます。「あなた方に何も危害は与えません。行きなさい。あなた方は自由です。」

この先例のない歴史的出来事を評して、ジョン・エスポージト教授は述べます。

「預言者は復讐、征服地の略奪行為を避け、戦後処理の合意ではなく、先の敵対者に対する武力による行使よりも、むしろ自由を与えた。それによりマッカの人々はイスラームに改宗し、ムハンマドを指導者として受け入れ、ウンマ(ムスリム社会)に加わったのである。」

「それとは対照的に、超大国による歴史を通しての不当な攻撃や侵略、他者を苦しめる罪深い非道な行為が行使されていることに気がつかれたであろうか?実際、私たちはムハンマドの人生を知れば知るほど、彼の優れた行いや性格を理解するのである。彼は事実、『人々に対する慈悲として使わされたのである』」(クルアーン 21:107)。

結び

イスラームは、アダムとイヴの時代に起源をさかのぼる真実の宗教です。それはシンプルで論理的、明快なものであり、現実的かつ生活の広範囲に及ぶものです。イスラームの美徳は唯一の創造者に由来するものゆえ、数え切れるものではありません。唯一なる神であるアッラーは、変わることのないクルアーンの中で次のように述べています。

「今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。」(5:3)

また、ムハンマドはアッラーが遣わした最後の預言者であり、すべての人々(ユダヤ教、キリスト教徒、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、無神論者など)に対して遣わされたのだ、と唯一なる神アッラーは私たちに告げます。アッラーはかれの導きと光をすべての人々に授け、精神的、社会的、世界的な平和はもちろん、平穏と安らぎを獲得することのできる秘密と鍵を明らかにしているのです。

イスラームは他人との交際や判断の際、また真実を探求する際には公正さ、賢明さ、誠実さ、正直さ、客観性を持ち、偏見を持たないよう私たちに教えます。すなわち、真実の探求においては信頼のおける典拠や確実な事実をもとにすべきであり、他人との交際や判断をする際は、公正で朗らかな姿勢での会話、相互的な敬意、そして明瞭な理解とともに執り行われるべきなのです。

参考文献

※ 日亜対訳 注解 聖クルアーン 宗教法人 日本ムスリム協会

※ ヨハネ文書 小林 稔・大貫 隆訳 新約聖書Ⅲ

※ 民数記 申命記 山我哲雄 鈴木佳秀訳

※ 新約聖書翻訳委員会訳 新約聖書 ヤコブの手紙

Dr.ナージー・イブラーヒーム・アル=アルファジュ

著者紹介

Dr.ナージー・イブラーヒーム・アル=アルファジュ

1995年、アメリカ合衆国ミシガン州大学、応用言語学の分野にて修士、博士課程終了。20年以上に渡り比較宗教研究に携わる。「Have You Discovered its Real Beauty?」 を広範囲にわたる研究と経験をもとに著述。世界中で講演活動を実施する。また、インターネットで観覧可能な数種類の書籍に関わる著者であり、ラジオやテレビ番組にも出演。サウジアラビア王国、市民コミュニケーションセンター所長を務める。

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