الوصف
イスラームにおいて、シャハーダに次ぐ重要な基幹を成しているサラー(礼拝)について様々な側面から見ていきます。
● ①サラーの意味とその地位と徳
● 1日5回の義務のサラーは、イスラームにおいて2つのシャハーダ[1]に次ぐ重要な基幹を形成しています。サラーは安全な状態であろうと危機的な状態であろうと、健康であろうと病気であろうと、また居住者であろうと旅行者であろうと、いかなる状態においても男女のムスリムに義務付けられているのです。そしてその各々の状態において、そこに適ったサラーの形と数があります。
● サラーとは:タクビール[2]に始まりタスリーム[3]で締めくくられる、特定の言葉や動作からなるイバーダ(崇拝行為)のことです。
● サラーの義務性に秘められた英知:
サラーは光です。そして光が明かりを提供してくれるように、サラーは人を正しい道へといざない、アッラーへの反逆行為から押し留め、下品な物事や悪事から遠のけてくれるのです。
● サラーは、しもべとその主を取り持つ絆です。そしてそれは宗教の要であり、そこにおいてムスリムは主との密談の喜びを見出します。またムスリムはそこにおいて気持ちを優れさせ、満足感を得、心の平安を見出し、楽しみを得るのです。またサラーによって願い事は叶い、それによって現世における心配や苦痛も和らげられます。
● サラーには起立や座位、ルクーゥ(お辞儀の形の礼拝動作)やサジダ(跪拝)などといった諸々の言葉や動作などに代表される、身体的側面に関連した外面的な部分がある一方、至高のアッラーのこの上ない偉大さを讃えることや、彼をタクビールすること、かれを畏れ、愛し、かれに従い、讃美し、感謝し、身を低めて服することなど、心的側面に関連した内面的な部分も存在します。つまりサラーにおける外面的な部分とはサラーにおける預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の言動を忠実に再現することで、内面的な部分とはそこにおいてやタウヒード[4]、イーマーン[5]、イフラース(真摯さ)や畏怖の念を発揮することです。
● サラーには身体と魂があります。サラーの身体とは、起立したり、ルクーゥ(お辞儀の形の礼拝動作)したり、サジダ(跪拝)したり、読んだりすることです。一方サラーの魂とはアッラーのこの上ない偉大さを讃えることや、かれに対する畏怖の念、賛美、祈願、罪の赦しを乞うこと、またアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)とその系譜、および正しいしもべたちに祝福と平安を祈ることです。
● アッラーはムスリムが2つのシャハーダをした後、その人生を4つの物事‐①サラー②ザカー(浄財)③サウム(斎戒)④ハッジ(大巡礼)‐で規律付けることを命じられました。そしてこれらがイスラームの諸基幹と呼ばれるものです。それらの中には、人間の心と財産、欲望と性質に対するアッラーのご命令を遂行するための実技演習が潜んでいます。そしてそれは、ムスリムがその人生を自らの私欲の赴くままではなく、アッラーとその使徒の命に則し、かつアッラーとその使徒が愛でられるような形で送るためのものなのです。
● ムスリムはサラーにおいて、自らの身体のありとあらゆる部分をアッラーのご命令の遂行のために従わせます。それは道徳、実生活、食事、衣服など人生の全ての側面においてアッラーに服従し、かつそのご命令を遂行するためなのであり、サラーの最中であろうとそれ以外の時であろうと主に従順であるようにあるがためのものなのです。
● またサラーは悪事に走ることを抑制し、悪行の罪滅ぼしにもなります。
アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)は、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこのように言うのを聞きました:「“あなた方の(家の)扉の前に1本の川があり、そこで毎日5回沐浴するとしたら、一体体に汚れの跡など残るであろうか?" (教友たちは)言いました:“汚れの跡など少しも残らないでしょう。"(預言者は)言いました:“それこそ(毎日)5回の(義務の)サラーのようなものである。アッラーはそれでもって罪を抹消して下さるのだ。"」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[6])
● 心の正しい状態:
心が正しい状態にあれば、身体もそうなります。そして心の正しい状態というものは、以下の2つのことによって達成されます:
① 自分が愛することよりも、至高のアッラーが愛でられることを優先づけること。
② アッラーのご命令と禁止令、つまりイスラームの教えを尊ぶこと。このことは、命じられ禁じられるお方である、偉大かつ荘厳なるアッラーを尊厳視することにより動機付けられていなければなりません。というのも人は何らかの命令を遂行するにあたって、他人の目を気にしたり、また人々の間における地位や財産などを求めたりしていることが往々にしてあるからです。また禁じられたことから自らを抑制しているその目的が、人々の前で面目を保つことや、あるいはそれを犯すことで適用されるアッラーの刑罰という現世的懲罰に対する恐怖でしかない場合もありえます。このような意味での命令と禁止令の遵守は、アッラーのご命令に対する偉大視から来るものではなく、また命じられ禁じられるお方であるアッラーの尊厳視を端緒とするものではないのです。
● アッラーのご命令を偉大視していることのいくつかの徴候:
以下のようなことが、しもべがアッラーのご命令を偉大視していることのいくつかの徴候です:
(例えばサラーなどにおいて)アッラーのご命令における決められた時間や範囲を遵守すること。その諸基幹と諸義務、スンナ[7]を遂行すること。命令を完全な形で遂行することに努め、それが義務付けられた時点でその遂行に喜び急ぐこと。例えば集団礼拝などの命令の遵守に失敗した時、悔やみ悲しむこと。アッラーの禁じられたものが侵犯された時に、アッラーゆえに憤ること。反逆行為に悲しみ、服従行為において喜ぶこと。イスラームにおいて定められた諸規定の問題を粗探ししようと努めたりしないこと。またそこにおいて何らかの英知を発見したら、それにより更なる服従と行いの増進があること。
● 偉大なるアッラーのご命令には2種類あります:
1-よき糧から食を得ること、地や海での狩猟など、心にも快い類の命令。
2-心には決して快くない労苦を伴う類の命令:これもまた2種類に分けられます:
① ズィクル(念唱)、ドゥアー(祈願)、諸々の礼儀作法、任意のイバーダ(崇拝行為)、サラー、クルアーンの朗誦など、軽度のもの。
② 布教、勧善懲悪、アッラーの道におけるジハード(努力奮闘)など、重度のもの。
イーマーン[8]は程度の軽いものであれ重いものであれ、アッラーのご命令を遂行することで増加します。そしてイーマーンが増加すれば以前は厭わしく思えたことも愛しく思えるようになり、厳しく思えたことも容易に感じるようになります。アッラーがしもべからお望みになられることはイスラームの教えを伝えることとイバーダ(崇拝行為)なのであり、その目的ゆえにしもべの5体が挙動することなのです。
● 崇高なるアッラーは全ての人間に、2つの魂を与えられました:それは①撹乱した魂、と②平穏な魂であり、互いに反作用し合っています。それで片方が軽くなればもう一方が重くなり、片方が満足すればもう一方が苦痛を感じるのです。そして一方は天使と、もう一方はシャイターンと共にあります。真理は全て天使と平穏な魂の側にあり、虚妄の全てはシャイターンと撹乱した魂の側にあるのです。そしてこの争いは一方が勝ったり負けたりの繰り返しなのです。
● イスラーム法的観点から見たサラーの地位:
男女を問わず、全ての健常な成人ムスリムは1昼夜5回の義務のサラーが課されています。但し月経と産後の出血中の女性は、清浄な状態になるまでその義務を課されません。そしてサラーはイスラームの諸基幹において、2つのシャハーダに次いで重要なものなのです。
1-至高のアッラーはこう仰られました:-実にサラー(礼拝)は、信仰者たちに定刻に義務付けられた。,(クルアーン4:103)
2-至高のアッラーはこう仰られました:-サラー(礼拝)を遵守せよ。そして中間のサラー[9]を。そして(サラーにおいて)アッラーに対し、従順であるのだ。,(クルアーン2:238)
3-アブドッラー・ブン・ウマル(彼らにアッラーのご満悦あれ)は言いました:「アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:“イスラームは5つ(の基幹)の上に成り立っている:(それらとは)「アシュハド・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・アブドゥフ・ワ・ラスールフ(私は、アッラーの他に真に崇拝すべきものはなく、ムハンマドがそのしもべであり使徒であることを証言する)」というシャハーダと、サラーを行うこと、ザカー(浄財)を施すこと、ハッジ(大巡礼)、そしてラマダーン月のサウム(斎戒)である。"」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[10])
4-イブン・アッバース(彼らにアッラーのご満悦あれ)によれば、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はムアーズをイエメンに派遣し、こう言いました:「彼ら(イエメンの民)を、アッラーの他に真に崇拝すべきいかなるものもなく、そして私がアッラーの使徒であるというシャハーダ(証言)へといざなえ。そしてもし彼らがそれに従ったら、アッラーが彼らに1昼夜5回のサラーを義務付けられたことを教えるのだ・・・」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[11])
● 成年の徴候:
諸々の義務行為が課されるムスリムとは、精神の健常な成年のことです。そして男女に共通する成年の徴候とは:①年齢が15歳に達すること、②陰毛が生えること、③精通、の3つの内のどれかです。
尚男性特有の徴候としては、あごと口にひげが生えることがあります。
また女性特有の徴候としては、妊娠と月経があります。尚子供は7歳からサラーをするよう命じられ、10歳になってもそうしなければ懲罰を与えるべきとされます。
● サラーの重要性:
アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「“審判の日にしもべが真っ先に清算されるのは、サラーである。それが完全な形で遂行されていれば、(その報奨も)完全に定められるが、もし何らかの不足があればアッラーは(天使たちに)こう仰る:「彼に、彼の義務(のサラー)の不足を補完するような、任意(のサラー)があるかどうか、見てみよ。」そしてそれから全ての行いが同様に清算されていくのだ。"」(アン=ナサーイーとイブン・マージャの伝承[12])
● 義務のサラーの数:
アッラーはヒジュラ[13]の1年前の夜の旅[14]の際、その使徒に何の仲介もなく直接的な形[15]でサラーを義務付けられました。崇高なるアッラーは当初全てのムスリムに1昼夜50回のサラーを定められましたが、このことはサラーの重要性とアッラーのサラーに対する寵愛を示しています。それからこの数は崇高なるアッラーの恩恵とご慈悲により軽減され、実際には1昼夜5回でも報奨においては50回のそれに値するものとなったのです。
● 全ムスリムの男女に課された義務のサラーは5回:①ズフルと、②アスル、③マグリブと、④イシャー、⑤ファジュル[16]です。
● サラーの義務性を否定する者、及びサラーをしない者に関する諸見解:
サラーの義務性を否定した者は、不信仰に陥ったことになります。怠慢やいい加減さからサラーをしない者も同様です[17]。もしその者がサラーの義務性について無知であるのならそれを教えなければなりませんが、もしそれを承知の上で放棄している者は3日間を期限として悔悟を勧められます。その際にもし悔悟せずサラーの義務性を否定し続けるのなら、彼は不信仰者として処刑されます[18]。
1-至高のアッラーはこう仰られました:-そして彼らが悔悟し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すのであれば、彼らは宗教におけるあなた方の同胞である。,(クルアーン9:11)
2-ジャービル(彼にアッラーのご満悦あれ)は言いました:「私は、預言者(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言うのを聞きました:“人をシルク[19]と不信仰から隔てるものは、サラーである。"」(ムスリムの伝承[20])
3-イブン・アッバース(彼らにアッラーのご満悦あれ)によれば、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「“棄教する者は殺しなさい。"」(アル=ブハーリーの伝承[21])
● サラーを否定したり放棄したりする者に現れる諸々の悪影響:
1-人生においては、以下のようなものが挙げられます:①この者がムスリムと婚姻関係にあることは許されません。②ムスリムがこの者を後見する義務も、彼がムスリムを後見する義務もなくなります。③この者はムスリムから遺産を受け取ることが出来ません。④この者が屠殺した動物の肉は食べることが禁じられます。⑤マッカ及びその周辺の聖域には入れません:というのも、彼は不信仰者と見なされる[22]からです。
2-そして死後においては以下のようなものがあります:①この者はムスリムによって遺体を洗浄されたり、イスラームにおける死装束でくるまれたり、葬儀のサラーを執り行われたり、ムスリムの墓地に埋葬されたりすることはありません:というのもこのような者はムスリムとは見なされないからです[23]。
● サラーを完全に放棄した者は、イスラームを棄教した不信仰者と見なされます。一方完全ではないものの、時々サラーをするような者は不信仰者ではなく、大罪を犯しアッラーとその使徒に反逆している、宗教における放埓者と見なされます。
● 来たるサラーのために待機することの徳:
アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「しもべはサラーが行われる場所で(来るべき)サラーを待機している間、サラーの中にいるのだ。そして天使たちは彼が立ち去るか、あるいは清浄な状態でなくなるまで、(彼のために祈って)こう言う:“アッラーよ、彼の罪をお赦し下さい。アッラーよ、彼にご慈悲をおかけ下さい。"」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[24])
● 清浄な状態でサラーのためにモスクへと歩み行くことの徳:
1-アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)は言いました:「アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:“家で体を清め、それからアッラーが定められた義務を果たすためにアッラーの家(モスクのこと)へと歩み行く者は、その片足の1歩ごとにその罪が赦され、もう一方の足の1歩ごとにその位階が上げられるであろう。"」(ムスリムの伝承[25])
2-アブー・ウマーマ(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「義務のサラーのために清められた状態で家を出る者には、イフラーム[26]をしてハッジ(大巡礼)する者の報奨と同様の報奨があろう。そしてドゥハー(午前中)の任意のサラーのためだけに労苦を忍んで家を後にする者には、ウムラ(小巡礼)をする者の報奨と同様の報奨があろう。またサラーの後、次のサラーまで下世話なことに首を突っ込むことなく過ごす者は、その行いを正しい者たちの善行の帳簿に記録されることであろう。」(アブー・ダーウードの伝承[27])
● サラーにおいて畏れ慎むこと:それは以下に示すような物事により達成されるでしょう:
① 気持ちを込めること。
② 自分が今読んでいること、あるいは聴いていることに対する理解と認識。
③ アッラーを偉大に思う心:それはアッラーの偉大さと荘厳さを知り、かつ自らが取るに足らない存在であることを実感することにより生じます。これらにより人は、自らがアッラーに対する義務の履行において至らない存在であるという念と、かれに対して畏れ慎む念を抱くのです。
④ 厳粛さ:アッラーのご威力と偉大さ、そして崇高なるお方に対する義務の履行におけるしもべの至らなさを知ることで生じます。
⑤ 希求の念:サラーにおいて、偉大かつ荘厳なるアッラーの報奨を心より望むことです。
⑥ 羞恥心:アッラーの恩恵の数々と、崇高なるお方に対する義務の履行におけるしもべの至らなさを知ることで生じます。
● イスラームの教えに沿った形において、サラーで泣くこと:
預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はサラーにおいて涙を流し、鍋が煮え立つ時に生じるような音を漏らしつつしゃくり上げたものでしたが、泣きじゃくったり声を上げたりはしませんでした。
また彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)が泣くのは、時にアッラーへの畏怖の念からであったり、彼のウンマ(共同体)に対する恐れや心配の念であったり、また時には死人への慈悲の念から来るものであったりしました。また時にはアッラーのお約束と警告を含むクルアーンの説を聞いたり、アッラーとそのみしるしと恩恵の数々や預言者たちの話を想起したりする時であったりもしました。
● サラーにおける畏怖の念のように、イバーダ(崇拝行為)の本質に関わってくる重要な徳を遵守することは、場所に関する徳よりも優先されます。ゆえに混雑など、畏怖の念が減少してしまうような場所ではサラーしない方がよいでしょう。
[1] 訳者注:「ラー・イラーハ・イッラッラー、ムハンマドッラスールッラー(アッラーの他に真に崇拝すべきものはなく、ムハンマドはそのアッラーの使徒である)」という証言の言葉。この言葉によって人はムスリムと見なされます。
[2] 訳者注:「アッラーフ・アクバル」という言葉のことです。
[3] 訳者注:礼拝最後の動作で、右と左に振り向いて挨拶すること。
[4] 訳者注:詳しくは「タウヒードとイーマーン」の章の「タウヒード」の項を参照のこと。
[5] 訳者注:詳しくは「タウヒードとイーマーン」の章の「イーマーンとイーマーンの諸特質」の項を参照のこと。
[6] サヒーフ・アル=ブハーリー(528)、サヒーフ・ムスリム(667)。文章はムスリムのもの。
[7] 訳者注:預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)の言動や、彼の認証したこと、及び彼の性質的・形質的諸特徴のこと。ムスリムは可能な限り、彼のスンナを踏襲するべきであるとされています。
[8] 訳者注:詳しくは「タウヒードとイーマーン」の章の「イーマーンとイーマーンの諸特質」の項を参照のこと。
[9] 訳者注:「中間のサラー」とはアスルの礼拝であるという説が濃厚と言われています。
[10] サヒーフ・アル=ブハーリー(8)、サヒーフ・ムスリム(16)。文章はムスリムのもの。
[11] サヒーフ・アル=ブハーリー(1395)、サヒーフ・ムスリム(19)。文章はアル=ブハーリーのもの。
[12] 真正な伝承。スナン・アン=ナサーイー(564)、サヒーフ・スナン・アン=ナサーイー(452)、スナン・イブン・マージャ(1425)、サヒーフ・イブン・マージャ(824)。
[13] 訳者注:ムスリムがマッカからマディーナへ、宗教迫害を回避して移住した出来事。いわゆる「聖遷」のこと。
[14] 訳者注:預言者ムハンマドが、1晩でマッカからエルサレムまで移動した奇跡の「夜の旅」の事を指しています。そして更に彼は、そこから大天使ジブリールに伴われて天界を訪問しました。
[15] 訳者注:啓示は大天使ジブリールの仲介をもって下っていますが、サラーは預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がアッラーから直々その義務を承ったのです。
[16] 訳者注:詳しくはこの章の「3.5回の義務のサラーの規定時間」の項を参照のこと。
[17] 訳者注:実際のところ「怠慢やいい加減さからサラーをしない者」はサラーの義務性を否定しない限り不信仰者の範疇には入らず、ムスリムの罪深い放埓者と見なされるのが4大法学派の見解です。
[18] 訳者注:サラーの義務性を否定する者は、棄教者と見なされるのが4大法学派の一致した見解です。但しそのような者を拘束して3日間悔悟を勧めたり、その後の処刑の実行命令を下すのは一国の統治者か指導者、あるいはその代理でなければならず、それ以外の者が勝手にそのようなことを実行することは出来ません。
[19] 訳者注:詳しくは「タウヒードとイーマーン」の章のシルクの項を参照のこと。
[20] サヒーフ・ムスリム(82)。
[21] サヒーフ・アル=ブハーリー(3017)。
[22] 訳者注:前出の通り、例えサラーを放棄していても、サラーの義務性を否定してさえいなければ不信仰者とは見なされないというのが、4大法学派の見解です。
[23] 訳者注:上記の訳者注を参照のこと。
[24] サヒーフ・アル=ブハーリー(176)、サヒーフ・ムスリム(649)。文章はムスリムのもの。
[25] サヒーフ・ムスリム(666)。
[26] 訳者注:「イフラーム」とはハッジにせよウムラにせよ、巡礼の儀の開始をニーヤ(意図)することです。
[27] 良好な伝承。スナン・アブー・ダーウード(558)、サヒーフ・スナン・アブー・ダーウード(522)。サヒーフ・アッ=タルギーブ・ワッ=タルヒーブ(315)参照。